特別レポートその2「仙台高専ロボコンチーム」前編

震災当日からロボコンまで、仙台高専の皆さんはどのように過ごしたのでしょうか。ロボットを生み出した工場でお話を伺いました。現在も仙台高専は、体育館の一部などはいまだに使用できない状況です。震災発生当日からロボコンまでの状況をレポートします。

3.11、東日本大震災が発生した日

「震災の翌日、担任の先生と相談して、家まで約20キロの距離を自転車で帰りました」と語る櫻井さん

震災当日は、3人とも部室がある工場の中にいたそうです。「突然地震があって、どんどん揺れが強くなってきて、みんなで声を掛け合って外に出ました。それから、寮へ避難をしました」。そして、「寮でテレビを見て、津波の状況がわかって愕然としました。ちょうど津波で仙台空港が水浸しになっているシーンでした」。

学校の先生と相談して、3人ともすぐに実家へ帰りました。「先輩の車に乗せてもらって、家へ帰りました。信号が動いていなかったので、事故が起きるのではないかとビクビクしましたね」(橋本さん)。「震災の翌日、担任の先生と相談して、家まで約20キロの距離を自転車で帰りました」(櫻井さん)。「実家が近くだったので歩いて帰りましたが、電気が止まっていたので、結局、発電機があった公民館へ家族と行きました」(磯崎さん)。

3人とも家族が無事だったのが何よりだったと口を揃えました。

すべてはライフラインの復旧から、はじまりました

「ポリタンクを用意して近くの小学校などに水をくみに行きました。自転車で1日何度も往復しました」と語る橋本さん

そして翌日からは、ライフラインとの戦いになりました。震災直後は、どの地域も電気、ガス、水道などのライフラインが全て止まりました。

「うちの地域は、1~2週間後に水道と電気が復旧しました。ガスはそのすぐ後です。電気が使えない間は、公民館でバッテリー を充電して夜に使用していました。ライフラインが復旧してからやっと日常に戻ったなと感じました」(磯崎さん)。大変な毎日でしたが、逆に地域の方たちとのふれ合いができたそうです。「給水車の運び入れや、給水に並ぶ列を整えたりしました。みんなで助け合う重要性を改めて思いました」。

「電気が使えない間は、公民館でバッテリー を充電して夜に使用していました。」と語る磯崎さん

橋本さんの自宅は集中プロパンだったので、ガスはすぐに動いたそうです。一方で電気と水は、復旧まで1週間以上、かかりました。特に水は、「ポリタンクを用意して近くの小学校などに水をくみに行きました。自転車で1日何度も往復しました」。

櫻井さんの地域は、「水は出ていました。電気も3日後ぐらいで復旧しました。ガスが一番遅くて、復旧したのは2週間後ぐらいでしょうか。食料は、あらかじめ持っていた蓄えや、家族と交代でスーパーへ並んで手に入れていました」。

3人とも、震災前までは、当たり前だと思っていたものが、実は当たり前ではなかったことを痛感させられたと言います。

震災からロボコンまで、考えたこと、感じたこと

「津波で流された地域を訪れたのですが、何も無くなっているのを見て言葉が無くなりました」と語る櫻井さん

3月11日から5月8日まで、学校は休校となり、ロボコンも完全にストップとなりました(学校の再開は5月9日)。その間、ロボコンチームの皆さんは一体何を感じ、考えたのでしょうか。

橋本さんは「やはりライフラインの大切さですね。電気もガスも水道も復旧する度に、家族全員で飛び上がって喜んでいました」。 櫻井さんはメンバー全員がはじめて聞く、エピソードを明かしてくれました。「自分は趣味で折り紙をやっています。そこで、ボランティア活動の一環で被災した地域の子ども達へ折り紙を贈りました。津波で流された地域を訪れたのですが、何も無くなっているのを見て言葉が無くなりました」。

磯崎さんは、福島第一原発の事故を、技術者としての視点で受け止めていました。「原発の事故を見て、ロボット製作に通じると思うのですが、リスクを少しでも減らしていかなければダメだと感じました。すぐに"安全だ!"と結論づけるのではなく、結局どうなるのか分からないという前提で試行錯誤していくことが大事だなと思いました」。

ピンチをチャンスに変えろ!団結したロボコンチーム

「例年だと3月、4月は、新しい技術を試行錯誤する時期ですが、そうした試みができなかったのは残念です」と語る橋本さん 「ボールを投げるアメフトがテーマなので、高さがある屋内展示場が必要でした。しかし、体育館が震災で壊れて使えなくなってしまったのです」と語る磯崎さん

そして4月26日、ロボコンの競技内容がついに発表されました。学校はまだ休校中。自宅待機だった仙台高専のみなさんは、インターネットの掲示板を利用して、ロボコンについて話し合いをはじめました。「部員のひとりが掲示板をつくってくれて、みんなで意見を出し合いながら設計を進めていきました」(櫻井さん)。とはいえ、「対面で話し合うのとは違うので、やはり細かいズレは発生しました」(磯崎さん)。また、「例年だと3月、4月は、新しい技術を試行錯誤する時期ですが、そうした試みができなかったのは残念です」(橋本さん)。そして、一番震災の影響が大きかったのは、練習場でした。「今年はロボットがボールを投げるアメフトがテーマなので、高さがある屋内展示場が必要でした。しかし、体育館が震災で壊れて使えなくなってしまったのです。近くの公民館を借りて、練習を行ったのですが時間の制約があるので、とても困りました」(磯崎さん)。しかし、逆にこのピンチをチャンスに変えた部分もあったそうです。

「時間がとにかくなかったので、スケジュールをしっかりと立ててやりました。公民館での練習も時間が少ない分、密度を濃くするように心掛けました。また、震災前までは正直、多くの先輩達が卒業してしまったので、部のまとまりがよくありませんでした。それがこの震災を通じて、まとまっていった実感があります。地方大会を終えて、全国大会の前は完全に団結していましたね」(橋本さん)。

前代未聞の大災害に襲われながら、それに屈することなく、仙台高専は、高専生の夢の舞台"ロボコン"に挑んだのです。

特別インタビュー「震災時の仙台高専」

震災時の仙台高専の様子を、ロボコンチームの担当教官である、桜庭先生に教えていただきました。

電気システム工学科 桜庭 弘教授

電気システム工学科 桜庭 弘教授

学校は、約1週間、電気が止まりました。その間、太陽電池パネルや風力発電などの実験用の設備を活かして昼間は電気を賄い、夜はバッテリーに貯めた電気で、テレビや照明などをつけました。仙台高専は避難所にもなっていたので(指定避難所ではない)、震災当日で約300人、最後まで十数人の方が泊まりました。 また、学校の被災状況ですが、建物の半分が使えなくなりました。特に被害が大きかったのは体育館で、その中でも危機的だったのがこの工場です。5月に学校が再開すると決まった時点でも、工場の再開は10月に再開という判断が出ていました。作業場である工場が使えないので、ロボコンはほぼ絶望的でした。それが奇跡的に6月から再開できたので、私も担当教官として心からうれしかったです。 最期に、ロボコンに参加できたのは、多くの皆様のご支援あってのことです。長岡技科大や東北大学の関係各位、東北地区の他の高専の方々などに、支援物資をいただいた他、ロボットの部品などをかわりに製作していただけるというお申し出などをたくさん頂きました。特に、ロボコンでも大変お世話になっている東北大学の田所諭先生と長岡技科大学の木村哲也先生 には震災から3日目の早朝に支援物資や、多くの発電機を、わざわざ学校にまで直接、運んできていただきました。この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。

現在の工場の様子。「工場は復旧しましたが、いまだに体育館は1棟、復旧していません。また、グラウンドや体育施設が主に使えない状況です」(桜庭先生)。

現在の工場の様子。「工場は復旧しましたが、いまだに体育館は1棟、復旧していません。また、グラウンドや体育施設が主に使えない状況です」(桜庭先生)。

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